2013年3月1日

魚沼と米とおれ

おれは魚沼産コシヒカリと同じ魚沼産だが、コシヒカリのように出来がよいわけではない。
とにかく、魚沼で生まれた。高校を卒業するまで、魚沼産の米をタップリ食べて育った。
小さいころは、まだコシヒカリではなかったし、ただ「米」だったが。

記憶にあるかぎり、3度の食事は米であり、
ときたま蒸し暑い夏の昼などは乾麺の蕎麦のことがあった。
パンは、ヤワでお話しにならない、おやつだった。
そのおやつにしても、10歳ぐらいまでは、米のおにぎりが多かった。
生まれは、昭和18年つまり1943年で、戦中。
2年後に日本は降伏、占領軍の支配下に入る。世間では飢えが深刻だった。
しかし、おれは、貧乏の思い出はあるが飢えた覚えはない。
それは、おれが魚沼産だったことに加え、いろいろ条件に恵まれていたからだろう。
おれは、米を食べて遊びながら、町を通る上越線で東京へ闇米を運ぶ人たちが、
警官に追われたり捕まったりするのを見ていた。

「魚沼」とは、新潟県魚沼地方のことだ。
江戸時代から明治の初めまで続いた越後国魚沼郡(うおぬまごおり)と、おおよそ重なる。
魚沼郡は、のちに北魚沼郡・南魚沼郡・中魚沼郡に分割された。
おれは南魚沼郡の六日町で生まれたのだが、その話しは後にしよう。
近年まで繰り返された市町村合併で、いろいろ社会的変化はあったが、
魚沼の地形は変わっていない。


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それは、市町村境とちがって自然のことであり、米の生産と密接に関係している。
地図を開くと、新潟市で日本海に注ぐ信濃川がある。
日本最長の川だ。さかのぼってみよう。

新潟平野を南へ向かって縦断し、上越線の長岡近辺を過ぎた信濃川は、
小千谷の辺から山間に入る。両岸に山が迫る。
右岸(上流から見て右側)は魚沼丘陵に連なり、左岸は東頸城丘陵に連なる。
この小千谷あたりから奥が、魚沼地方になる。
冬には豪雪地帯として知られるが、信濃川は枝分かれしながら、どんどん山地に分け入る。
ようするに、山と大小の川が織り成す、けっこう複雑な地形だ。
一見平地のようでも傾斜地であり、とくに雪解けの季節になると水をはらんで存在を示す、
いくつもの小さな川がある。それらは信濃川につながる毛細血管のようなもので、
用水として整備されたものも少なくない。
この土地と人々の関わりの、長い年月の末に、魚沼産コシヒカリが生まれ育った。

魚沼に入った信濃川は、大きく東へカーブし上越線と絡み合いながら、
川口の辺で信濃川と魚野川に分かれる。信濃川は、さらに南へ向う。
魚野川は東へ向い、小出で南へ向きを転じる。
小出では、魚野川と分かれ北へ向ってさかのぼる流れがある。
それは福島県境の越後山脈へと分け入る。
小千谷から、このあたりが、北魚沼だ。

川口から、さらに南へ向った信濃川は、右岸を魚沼丘陵、
左岸を東頸城丘陵に囲まれた十日町盆地をさかのぼる。
十日町周辺は雄大な河岸段丘から成り、山深い魚沼地方の中では、
比較的開けた穏やかな風景の土地だ。
しかし、その先は、山が迫り、信濃川は険しい山峡をぬって長野県境を越える。
この地域が、中魚沼。

鉄道は川口で上越線から分かれ、飯山線になる。
そして、小出で南へ向って向きを転じた魚野川は、六日町盆地に入る。
左岸は十日町盆地と隣接する魚沼丘陵、右岸は、まるで屏風を立てたように、
群馬県境の2000メートル級の峰々が連なる三国山脈から張り出した山々。
北魚沼や中魚沼とはちがう雄大で厳しい山々がそびえている。
ここが、南魚沼だ。

魚野川は、細かく枝分かれしながら魚沼丘陵と三国山脈の源流に至る。
魚野川と絡み合って南下した上越線は、清水トンネルで雪国越後を去り、
関東の上州群馬へ抜ける。

いまクドクドと魚沼の地形を述べたが、米を語るには、これでも大雑把すぎる。
おれが子供のころ、父と母は、よく本家の米のことを話していた。
本家は百姓で、父は次男だった。分家したから、田圃はなかった。
家の周りに広い庭ていどの畑があるだけだった。
食べる米は配給米のほかに、本家の米も食べていた。
同じ本家の米でも、田んぼのある場所によって、出来がちがうということなのだ。
おれには、その区別がつかなかったが、父と母は、上越線六日町駅西側の、
小川のそばの田んぼの米が一番うまいといっていた。
いまでは、そのあたりは道路と住宅になっている。

おれがその話を思い出したのは、30歳ぐらいになってからだ。
たくさん米を食べていたし、小学生ぐらいまでは、
近所の百姓や本家の田植えや稲刈りの手伝いを遊び半分ですることはあったが、
米については、ほとんど知識がなかった。

1973年か4年のことだった。
企画会社でマーケティングの仕事に就いていたおれは、食品メーカーを担当していた。
そのメーカーが、「レトルトごはん」を開発し売り出すことになった。
そこで初めて、原料の米から勉強した。本を調べたり、米に詳しい方にインタビューしたり。
日本の農村をくまなくといってよいほど歩きまわり、
米にも農村にも詳しい信頼できるひとに出会った。

当時は、ブランド米が注目され始めたころで、ササニシキが隆盛を誇っていた。
宮城のそれが、とくに有名だった。コシヒカリが、そのあとを追いかけていた。
米の味の話になったとき彼は、「ササニシキだろうがコシヒカリだろうが、
川筋がちがえば味は変わる、田圃がちがえば味は変わる」と言った。
そのとき、おれの頭の中で、ちいさいころの父と母の会話が、よみがえった。

川筋は自然のもので、土や水の質のほかに、太陽や風の向きなど気候も関係する。
田圃は自然だけではなくひとの関わりが深い。
ひとは、太陽や気候の様子を見ながら、田圃で、直接的には土と水を管理し、
注意深く稲を育て、米を収穫する。
「おらとこの田圃の米が日本一だ」と思うのは、その誇りでもあるだろう。

一般の消費者は、川筋や田圃ごとにちがう米の味を気にする必要はないかもしれない。
だけど、米は、ブランドより、土と水と人だということは、
知っておいたほうがよいと思った。
土と水と人に被さるように、ブランドが成り立つのだ。
それから、ますます米に興味がわいた。

魚沼米は、うまい。
魚沼の地へ行って、魚沼の風景を見て、その土地の水を飲んで、
人と語り合って、食べれば、そのよさが、もっとわかるだろう。
米に限らず、食べ物は、経済であるが、人の体をつくる食料だ。
金銭の介在による売買だけではなく、土地や人との交流が大切だ。
そこに生まれる信頼関係こそ、うまい米を育む文化の土壌であり、
かみしめるほどうまい味わいの素になる。

はあ、こうやって書いていると、
魚沼の土地と人々が思い出され、すぐにでも行きたい気分になる。
いまは2月、魚沼は雪のなか。桜が咲き、若芽が魚沼の山々を彩り、
田植えの準備に田圃にはられた水が太陽の光を浴びて一面に輝くころ、
その田圃に苗が植えられ新緑の風になびいて盆地の風景になるころ。
山の匂い、水の匂い、苗の匂い。

魚沼へ行こう。

エンテツの米の話

遠藤哲夫(えんどう・てつお) 1943年(昭和18)新潟県六日町(現・南魚沼市)生まれ。庶民の快食を追求するフリーライター。通称“エンテツ”。著書に『汁かけめし快食學』『大衆食堂パラダイス』(ちくま文庫)など。現在、ちくま新書より新刊『大衆めし激動の戦後史―「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』が発売中。